プロローグ ヨルダン川を越えるのは私にも遠かった
旧約聖書によれば、モーゼはイスラエルの民を引き連れてエジプトを脱出し、ヨルダン川東岸ネボ山周辺までたどり着きましたが、神の怒りに触れ40年間荒野をさまよって遂にヨルダン川を渡れず、約束の地に到達出来ません。
私は65歳で現役を退き、その後は旅行社のツアー旅行を利用して、北半球のキリスト教文化圏、イスラム教文化圏、仏教文化圏、ヒンヅー教文化圏と言われるところはほとんど廻ってきました。ユダヤ教文化圏にも早く行きたかったのですが、これまで訪問した国の中に今は内戦が勃発しているシリアがありました。(2008年シリア、ヨルダンヘ行く)
イスラエルとシリアは戦争状態にありますので、パスポートの中にシリア入国のスタンプがあるとイスラエルは入国を認めません(逆にイスラエル入国のスタンプがあれぱシリアには入国できません)。そのパスポートの期限が一昨年に切れ、新しく次の10年間のパスポートを入手しましたので、それにはシリア入国の痕跡はありません。そこで今回晴れてヨルダン川を渡ることができました。
第1日 キリスト生誕の地ベツレヘムはパレスチナ領にある
ベツレヘム聖誕教会が世界遺産に登録され、パレスチナを認めないイスラエルがそれを非難しており、両国の複雑な緊張関係を浮き彫りにしています。このあたりの実情は新聞を読んでいただいていると思いますので割愛します。唯、ベツレヘムのパレスチナ領への入出国は簡単ですが、ベツレヘム聖誕教会へ行くには、国境からパレスチナ国のバスに乗り換える必要がありました(イスラエル国籍として登録したバスはベツレヘム市内を走行できません)。
第2日 ヨルダン川の大きさは心斎橋の道頓堀川より少し大きいぐらいでした
あのモーゼも渡れず(神の怒りというより西岸の先住民の激しい抵抗があったものと推察しています)、今もしばしばヨルダン川西岸パレスチナ地区として世間の注目を集めているヨルダン川の大きさ、水の流れている幅は、意外や意外皆様おなじみの道頓堀川とあまり変わりず、護岸工事をしていませんので両岸の堤防敷、雑草が生えている処を含めてもせいぜい道頓堀川の3倍ほどでした。
この狭い川を挟んでモーゼの昔(4千年ぐらい前でしょうか)から世界を巻き込む文明の衝突が続いていることを肌身をもって知ることができました。
そのヨルダン川でイエス・キリストは洗礼を受けました。(ヨルダン川の大きさを理解していただくためにこの写真を掲載しました。人間の大きさと比べてください)
第3日 ガリラヤ湖と山上の垂訓の場所
キリストは数々の奇跡と説教を行い、多くの人々に感銘を与えました。
ガリラヤ湖畔で銀貨を口にくわえていたといわれる魚の塩焼きを食べましたが、残念ながら銀貨は出てきませんでした。
第4日 「嘆きの壁」もパレスチナ領ですが、治安の維持管理責任はイスラエルにあります
嘆きの壁に多くのユダヤ教信徒がお祈りをしていました。パレスチナ人だけではなく、ユダヤ教信者の中にも過激な思想を持った人がいますので、治安維持のために軍隊が出張っていました。壁に向かってお祈りする信者には今も男女区別がされて、右側囲いの中は女性専用で、家内も囲いの中に入れられました。
壁の上にイスラム教神殿があります。
第5日 パレスチナ領にあるユダヤ入植売店
見た目は平和そのもので、ユダヤの軍隊がノンビリ警護に当たっていました。
第6日 ゴルゴダの丘への悲しみの道(ヴァイア・ドロローサ)
ピラトにより死刑の判決を受けたキリストは、十字架を背負い苦しみながらゴルゴダの丘へ歩きます(約1千メートルか?)。その道を各国から巡礼の人々が歩きます。中にはミニ十字架を背負って歩く巡礼の人もありました。悲しみの道の一部にはアラブ系の人が出店を出して土産物を売っているところもありました。
第7日 ゴルゴダの丘の刑場跡と復活の墳墓
2千年にわたり、ユダヤ教、イスラム教に支配されたゴルゴダの丘には勿論当時の面影を残すものは何も残っていません。開発されて聖墳墓教会が建てられていました。
エピローグ スーパーの入り口でもテロ防止のため手荷物検査がありました
キリスト誕生の地、シェクスピアのヴェニスの商人の出身地、現代ではユダヤ教77%、イスラム教16%、キリスト教2%、そして絶えず周辺のアラブ諸国から狙われていると言われる複雑な国を旅して、時々空襲警報が鳴り響くようなテルアビブ空港よりトルコのイスタンブール空港に到着した時には、何か大きな仕事をやってきたような感じを持ちました。
〔門脇敏郎 記〕
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